弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

お月さまとぽこちゃん

窓の外にみかん色の満月が、東山の向こうから登ってくるのが見えた。「いま琵琶湖あたり、きれいだろうねえ」なんていいながら、夫と夜の散歩に出た。オンラインで一通り仕事を終えたばかりの夫は、しゃべるのも早いし歩くのも早い。

 

私は先日、散歩中に土手でジャンプして捻挫したばかりで、歩くのに時間がかかる。わざわざいわんでも、夫はハタと我にかえって、ゆっくり歩いていくる私を待つ。少しじれったそうに。早く歩きたいからじゃない。話したいことが口から溢れそうだから、私の耳や胸で受け止めてほしいのだ。

 

このところ夫はすこぶる生き生きしている。ただでさえ大きな瞳が、月明かりできらきら輝いてる。新しい仕事のこと、人形劇のこと、次に覚えたいレシピのこと、あれこれ話してくれる。話しながら、火照った頭を整理している。私は相槌をうちながら、夫の二の腕を揉むけど、それでもおしゃべりが止まらない。痩せたなあ。いいことなんだが、腕の肉が物足りない。

 

もうずいぶん暖かくなって、夫はパリで買った古着のデニムシャツの袖をまくっている。私は袖をまくった腕が好きなのか、まくられた袖が好きなのかふと考える。好きな気持ちには対象があるはずなのに、いまだに私は腕が好きなのか袖が好きなのかよくわからない。つまり対象そのものが境界でできているからかもしれない。エッジともいう。であれば、私が好きなのは、腕と袖の境界そのものなんだろう。

 

川辺まできて、お月さんを仰ぎちょっと休憩。夜は散歩人口が少ない。時折ジョギングしている人がいたり、夜の闇の気楽さか、家族づれで散歩している人たちもいたり。川の水が縁からおちて、水面に叩きつける音が耳にこもる。夫はたったまま喋り続ける。影のシルエット。やっぱり痩せたな。すっきりした。男らしくなったなあ。思ったことをそのまま口にする。「ごきげんだね」「おうよ」「今日はいちだんと元気だね」「うん。あ、でもあれかな。ぽこちゃんがなんともなかったから、余計ごきげんなのかもしれん。今日ほんと緊張した」そういって胸をなでおろしている。

 

二日前のことだった。うさぎのぽこを撫でていたら、目の中に白い点が見えた。どうも目やにじゃないと気づいて、とたんに背筋が凍りついた。すぐにネットで調べると、初期の白内障の症状そのものだった。近くの動物病院に電話をすると、高齢うさぎでは珍しくないという。電話をきって、私も夫も食欲をえらく失い、しばらくは仕事に没頭したあと、だんだん何も手につかなくなって、力なく二人で抱き合った。

 

最初に泣いたのは私のほう。ぽこちゃんが病気になるなんて。ついに恐怖に追いつかれたと思った。うさぎの平均寿命は犬やねこより短いとされている。ぽこは6歳で高齢うさぎになる。ぽこが家のなかをかけまわって、一緒に遊んで、撫でて、たくさん歌を歌う。ぽこはかわいいから、愛おしいから、毎日新しい歌が生まれる。ぽこは私の体に歌を宿す。私はそれを生む。しあわせのうた。でもそのしあわせの境界に、ぽことの別れがある。いつかはくる別れ。振り切っても振り切っても背中に張り付いている、いつかのぽこの死。ああ毎日、振り切って振りきっていたつもりなのに、こんなに簡単に追いつかれるなんて。

 

白内障だったとしても、すぐに死ぬわけじゃない。付き合っていくだけで、死に至る病ではない。それでも老いていくぽこが病気にかかることは、十分に死を連想させた。背中がいたい。痛みが首うしろにせり上がる。私が泣いていると、夫も静かに泣いている。泣いたらすっきりして、翌朝、散歩ついでに、神社でぽこの健康祈願のためのお参りをした。

 

今朝、夫はぽこを連れて病院へ行った。結果、角膜が少し傷ついているだけで、白内障ではなく、健康診断も概ね心配なしだった。目薬で経過を見ることになった。

 

幸い病気ではなかったとわかって、私も夫も、なんだか身体中の力が抜けてしまった。そこに芯から力がわいてきたのだ、と夫はいう。夫は私より感情表現が控えめなほうだけど、それでも落ち込んでいたのはむしろ彼のほうだったのかもしれない。思わず背中を撫でる。

 

幸せってなんだろう。ぽこと出会えたこと、ぽこがいること。そのエッジは、ぽこの死、別れが隣り合わせだ。ああ、だから、この幸せは、共にあれること、いつか別れることの境界そのものなんだろう。

 

でもその境界は、なんとも淡い光で満ちて溶けているように感じた。それは満月が溶かす夜の闇の縁そのもののように思えた。死んでくちても続く魂は、あの満月みたいなものなんだろう。出会いと別れの境界を溶かすもの。溶かして、境界である“幸せ”をふくらませるもの。

 

ああ、そっか、だってぽこちゃんはあのお月さんからやってきたんだもんね。

 

 

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ひょこ