現代を生きていて、
差別に加担せず生きている人なんていないと思う。
どんなに素敵な友人や尊敬する人を思い浮かべても、
やっぱり一人も見当たらない。
私自身が、そうであるように。
例えば普段から愛に満ちた人が、
SNSのタイムラインに「差別をやめようよ!」と標榜した次の投稿で、
帰国したウイルス感染者に対しての怒りを向けている。
大変な矛盾ですが、本人はそれに気づいていない。
こういう矛盾が簡単に起きてしまうのは、
差別的感情は、生理的嫌悪感から生まれやすいからだと思います。
自分が生存していく安全を奪うものは、強烈な嫌悪を感じさせます。
それは本能であり、当然のことです。
ただ、嫌悪感を感じている自分のことを自覚できていないと
無自覚な差別的表現を示し、相手を傷つけてしまいます。
普段は「差別なんていけない!」と頭で考えているのに
自分の命や安全な生活が脅かされるとなると
相手を敵とみなし、遠ざけようと必死になる。
繰り返しますが、自分の命を守る、という本能において
これらは当たり前のことです。
だけど、それを無自覚に表現することは、私は当たり前とは思わない。
感じることと、表現することの間にはガラス一枚の壁があると思う。
だからこそ、まず嫌悪感を感じてしまう自分を認め、自覚しよう。
その上で、差別したいと感じている欲求を、認める。
自分の命を守りたい気持ちを、認める。
認めないことには、自分の行動を客観視したり、
自覚したりすることができません。
「あんなひどい差別に自分は加担しない! 自分は善良である!」という理想が
本当は差別に加担している等身大の自分を、なかったことにしてしまう。
差別したい自分を認められたら、
それを表現するまでの間にガラス一枚の壁が生まれます。
その壁を超えるまでの間に、たくさんの思考が生まれます。
そこから、相手への思いやりや、相手の立ち場を想像すること、自分はどうかと振り返る時間が生まれ、日頃の行動をきちんとしていれば、命の安全がすぐに脅かされるわけではないことに思い至る。やがて人は冷静さを取り戻します。
このガラス一枚の壁こそ、私は教養だと思っています。
あらゆる勉強も学びも、この教養のために働くものだと思います。
私は身の危険を感じたら、
差別したい気持ちを生む人間です。自分の命を守るために。
でも誰かを傷つけたいとは思っていません。誰かの心を守るために。
だからどちらも認めます。
なぜなら、現代を生きていて、
差別に加担していない人間などいないと
私は考えているからです。
そのうえで、どうしたら自分は
自分の内側にあるたくさんの差別を溶かしていけるのか
日々考えています。
そのために、私はまず、自分の痛みを見つめるようにしています。
喜びも痛みも差別せず、感じて受け入れる。
すると外の世界に対する差別が溶けていく。
まだまだ道半ばですが、だからこそ面白い。
すべては自分から。
私には、そのための人生です。
写真は伊勢の倭姫宮にて🐰