弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

差別の気持ちは誰もが持っている

現代を生きていて、

差別に加担せず生きている人なんていないと思う。
どんなに素敵な友人や尊敬する人を思い浮かべても、

やっぱり一人も見当たらない。

 


私自身が、そうであるように。

 

 

例えば普段から愛に満ちた人が、
SNSのタイムラインに「差別をやめようよ!」と標榜した次の投稿で、
帰国したウイルス感染者に対しての怒りを向けている。

 

大変な矛盾ですが、本人はそれに気づいていない。

 

こういう矛盾が簡単に起きてしまうのは、
差別的感情は、生理的嫌悪感から生まれやすいからだと思います。
自分が生存していく安全を奪うものは、強烈な嫌悪を感じさせます。
それは本能であり、当然のことです。

 

ただ、嫌悪感を感じている自分のことを自覚できていないと
無自覚な差別的表現を示し、相手を傷つけてしまいます。
普段は「差別なんていけない!」と頭で考えているのに
自分の命や安全な生活が脅かされるとなると
相手を敵とみなし、遠ざけようと必死になる。

 

繰り返しますが、自分の命を守る、という本能において
これらは当たり前のことです。

 

だけど、それを無自覚に表現することは、私は当たり前とは思わない。
感じることと、表現することの間にはガラス一枚の壁があると思う。

 

だからこそ、まず嫌悪感を感じてしまう自分を認め、自覚しよう。
その上で、差別したいと感じている欲求を、認める。
自分の命を守りたい気持ちを、認める。

 

認めないことには、自分の行動を客観視したり、

自覚したりすることができません。


「あんなひどい差別に自分は加担しない! 自分は善良である!」という理想が
本当は差別に加担している等身大の自分を、なかったことにしてしまう。

 

差別したい自分を認められたら、
それを表現するまでの間にガラス一枚の壁が生まれます。
その壁を超えるまでの間に、たくさんの思考が生まれます。

 

そこから、相手への思いやりや、相手の立ち場を想像すること、自分はどうかと振り返る時間が生まれ、日頃の行動をきちんとしていれば、命の安全がすぐに脅かされるわけではないことに思い至る。やがて人は冷静さを取り戻します。

 

このガラス一枚の壁こそ、私は教養だと思っています。

あらゆる勉強も学びも、この教養のために働くものだと思います。

 

私は身の危険を感じたら、
差別したい気持ちを生む人間です。自分の命を守るために。
でも誰かを傷つけたいとは思っていません。誰かの心を守るために。
だからどちらも認めます。

 


なぜなら、現代を生きていて、

差別に加担していない人間などいないと
私は考えているからです。

 


そのうえで、どうしたら自分は

自分の内側にあるたくさんの差別を溶かしていけるのか
日々考えています。

 

そのために、私はまず、自分の痛みを見つめるようにしています。

喜びも痛みも差別せず、感じて受け入れる。

すると外の世界に対する差別が溶けていく。

まだまだ道半ばですが、だからこそ面白い。

すべては自分から。

 

私には、そのための人生です。

 

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写真は伊勢の倭姫宮にて🐰