弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

オリンピックの年までに東京を出ると決めていたこと

上京する直前、受験生だった私は中越地震で被災した。3度の直下型地震。たまたまお風呂に入っていたので、慌ててタオルで身体をふいて、なぜか英単語帳と化粧ポーチを持って外へ出た。2度めの大揺れがきて、アパートがプリンみたいにぐにゃぐにゃにしなった。鉄筋コンクリートの建物が、まるで軟体動物のように揺れた。

 

母は職場、妹は下校中の電車のなかに閉じ込められていたことがあとでわかった。私はそのとき一人で、揺れがおさまったあと、あわてて家のなかに駆け込み、ガス栓を締め、財布を持ってスーパーへ走った。すでに大勢のひとが押しかけていた。レジのそばで、近くの旅館のスタッフが電池を買い占めようとして住人たちと揉めていた。私はパンと水を抱えてレジに並び、コンビニに走って、電池を探した。単3を一つだけ買って家に帰った。

 

街中の明かりが消えて、満月が大きかった。あのとき見た月だけが今も強烈に記憶にこびりついてる。あらゆる明かりから、物音から、暮らしの気配から切り離された月は、美しかった。(学校が再開したあと、何人もの友人がやはり「あの日の月」の印象をそれぞれに持っていた。多くの子たちは「怖かった」「うすきみわるかった」と言っていて、私はきまりが悪くてきれいだと思ったとはいわなかった)

 

10月の末だった。学校に再び行けても、線路が脱線しているので電車が通らず、ひどいときは高校まで片道4,5時間もかけてバスで通うはめになった。真面目に勉強していた同級生たちの多くが浪人の道を選んだ。

 

余震は続いた。当時の部屋は5階建ての2階だったので、「崩れたら死ぬな」と思いながら天井を見ていたのを覚えてる。だから上京するとき、私はアパートを選ぶ基準の第一に”建物の耐震性”と、”2階建て以上のアパートにはなるべく住まないこと”、”地区の地盤の硬さ”を挙げた。

 

以来、どこに引っ越してもなるべくこの条件を貫き通してきた。だから夫が日テレに転職したとき、部署がビルの30階よりも上で、東京湾が近い汐留だと知ったときは即転職を勧めた。しかし夫は「ここで学べることを学んでから転職する」と言ったので、せめて災害時に自力で家に帰ってこられるよう道を覚えようと、何度も二人で汐留から恵比寿まで徒歩で歩いたりした。

 

中越地震を経験した多くの知り合いは、口々に言った。「もしここが東京なら、私たちは助かっていたのかな」と。実際、私が上京してからの4年間、首都直下型地震が起きる可能性は70%だと言われていた。だから東京に住んでからもずっと、東京を出ることを考え続けていた。私にとって東京とは、災害リスクがあまりにも高い場所であり、だからこそ”ここでしかできないこと、学べないことを学ぶ場所”であり、終わったら即撤収する場所、という認識が、18歳のころからずっとあったのだ。

 

さらに、大学に進学していざ就活、というタイミングでリーマン・ショックが起きた。真面目に就活してた子たちは次々内定ぎりをくらっていた。その姿は、震災時の受験生だった友人たちと重なった。(私は進学も就職も不真面目にやっていたので、かえってどちらの影響も受けなかった)

 

そして、フリーランスになった26歳の時点で、いざ東京を出ようとした矢先に夫と出会い、27歳で結婚した。やがて夫が日テレに転職したとき、私はひとつ条件をあげた。

 

2020年の東京オリンピックがはじまる前までに、東京を出る。あなたがもし出られなかったら、私は一人でもここを出ていく、と。

 

結果として、2018年の時点で私たちは京都へ移住した。住む場所を探して、雇用を整えて(5年かかった)、東京にいる大好きな人たちと、身がちぎれる思いで離れてまで、それでも移住した(鈴木家の人たちに告げた晩、家に帰った私と夫は抱き合って声を上げて泣いた)。移住って、やってみるとわかるけど命がけ。ただ人生スキルは超あがる。

 

そしてこの年あたりから災害が一気に増え、京都も揺れたし、大型の台風もきた。私たちはただ粛々と備え、粛々とやりすごし、また日常へ戻るを繰り返した。

 

もちろん、日本のどこにいたってリスクはある。海外に住んでいたって、もはや地球上のどこもかしこも異常気象だ。東京を出たからって安全ってわけじゃない。だけど、いよいよ東日本大震災がきたとき、私は「もっと大きな変化はこれからくる」という強烈な危機感を感じた。どこよりも、それは東京で感じていた。

 

だから20代なかばから後半はずっと、どこで、いかにして生きるかをひたすら考えていた。私は中越地震で、真面目に勉強してたはずの子たちほど、時代に裏切られるのを見た。リーマンショックで、真面目に就活してた子たちほど、憂き目に合うのを見た。

 

でももっと本音を言えば、”このまま東京にいれば仕事には困らない”とか、”いい大学にはいって良い企業につけば安泰”みたいな発想で人生を考えたことが、私は一度もなかった。そんなの、地震ひとつで、経済のひずみひとつで消え去ることをとっくに知っていた。

 

それよりも、例え荒野を生きる時代がきたとて、誰に嘲笑されたとて、自分が心からやりたいことをやる人生を、いかに社会とバランスさせて生きるかを考えてきたし、工夫してきたし、いまもし続けている。現状、好きな仕事をして働き、旅をして、夫と人間パワーを高めあいサバイバルしている人生に概ね満足している。そして災害と付き合い、向き合う心とからだ、生活を試行錯誤しながら作り続けている。この生き方が、私はとっても楽しい!

 

 

2020年を迎えた。ただ粛々と、やりたいことをやる毎日が、今年も続いていく。私は別に東京そのものには恨みはない。そこで暮らすことをやめたけれど、暮らす人に意見はない。だって、どこで暮らしたって、それはその人の選択だし。実際、このあいだ宮崎駿さんの東日本大震災後のインタビューを読み返していたら”東京はいずれ大きな災害に遭うだろうが、ここまできたら自分は逃げない。目撃者になる覚悟だ”という趣旨のことを書いていて、なんて自覚と覚悟だ!と僭越ながら感心してしまったし、そういう人が私の友達にもいる。それに東京に住んでいなくても、災害に対するそれくらいの自覚はいる、と思ってる。

 

だから私は、いざ2020年までに都内を出る、と宣言していたその年を迎えてみて、今自分がどこにいても、せめて自覚はしようよね、お互い、とこれを読んでくれている人にだけでも言いたかった。いまどこにいても、”自分は選んでここにいる”という自覚をしようよね、と。そしてお互い、備えようよね、混沌の時代を自覚しようよねと。オリンピックもいいけど、そうじゃなくてさ、って。じゃないと、いざというときに”こんなはずじゃなかった”ってなっちゃうから。

 

ところで年末年始の一週間を、我が家は熊野のキャンプ場で過ごしていたんだけど、ネットもテレビも見ない分、野生の勘が冴えるのを感じていて。だから1日でも、ネットもテレビもつけない日を過ごしてみてほしい。今の時代の空気は、文字や映像じゃない、肌で感じられるものからのほうが、正確に受け取れることが多いから。

 

人によっては新年から重い!と思うかもしれないんだけど、そもそも私は災害にまつわる話を”重たい”なんて思っていなくて。日常の延長にあるものだと思ってるから、抵抗はないんだよねえ。

 

そんなわけで、わりと地道に、冷静に迎えた2020年です。 笑

 

 

 

f:id:yaeyaeyae88:20200102212638j:plain

写真はNY