人は本質的に無償の愛を求める生き物だと思う。そして大人になるにつれて、そのような愛を求めることの非効率さを知る。だから、誰にも依存せず生きること、孤独の淵に立っても膝を折らないことを学ぼうとする。それこそが自立した大人の態度だと。
それでも人は無償の愛を求めることをやめられない。友人に母を見たり、恋人に父を見たり、好き勝手に投影しては、好き勝手に喜び、傷ついたりする。「もう大人だから」と心をしまいこむようにして、もっと偶像を照らしてくれる存在にだけ心を開いたり、趣味の世界に没頭したりして、なんとかバランスを保ってみせる。
このような態度を愚かだと言える人は一人もいない。
ではどうして、人は無償の愛を求めるのか。
そう考えた時、私は、人が無償の愛を求めるのは、“無償の愛に応えてくれる確かな存在がいたからだ。それを与え続けてもらっていた太古の記憶が、いまも発動しているからだ”と仮定した。つまり、私たちの体には、無償の愛を求め続ける本能が、はじめから備えられていて、かつ、現代には、そこから私たちを遠ざける力が働いているのだと。
現代では、無償の愛を与えてくれるのは人間だ。そのような物語は世界中に溢れかえってる。ほとんどの物語は、愛に傷つき、愛に安らぐものばかりだ。
いや、でもそれはまやかしじゃないか?と思った。だって、無償の愛を与えてくれる存在は、人間以外にもたくさんいることを、私は幼少からずっと感じ続けてきたから。
草の葉一枚にも神が宿るとされるのなら、草の葉一枚からも無償の愛をもらうことができる。手のひらを広げたようなたんぽぽの葉が、朝の白い光を吸い込み、夕暮れに吐息を漏らすとき、世界は愛で満たされる。そのことを、太古に生きた私たちのDNAは知っていて、だけど彼らから切り離された現代において、与えてくれる相手は「人でしかない」と思いこまされ続けている。「たんぽぽの葉一枚が、愛をくれるわけがない」と。
「だから私は憎み続けたい。無償の愛を与えてくれなかったあの人を」と。
無償の愛をくれる存在がすぐ傍にあるのにも気づかずに、傷つきつづける。
そしてそこに没頭し続ける人は、春に笑う桜の声より、秋に滴る紅葉の涙より、いま目の前にあってやらなければいけないことこそ至上だと考える。
20代前半ほどの頃の私は、まさにそんな感じだった。
東京のど真ん中に住んで、ど真ん中で働いてた。
そこにいても草木を感じることはできる。
でも限界がある。草木より人と物の数が圧倒的に多いから。
東京という「極」で生きるのなら、とるべきバランスがある。
どうしてか、東京にいた20代前半、私はいつも同じことで悩んでた。
要は、無償の愛を与えられないことにもがいてた。
いつまでも満たされないことに傷ついてた。
何より、「無償の愛を求めてしまうこと」に傷ついてた。
今の私なら、当時の私に「いますぐ新幹線のチケットをとって。土の豊かなところにいって、裸足になって」と答える。
人工物に囲まれ続けて、それでも正気を保てる人を、私は見たことがない。
そら「全く平気!」な人はそれでなんの問題もないのだろうけど。
私が知る限り、みんなちょっとずつ自分を麻痺させて保ってる。
お酒を飲んだり、タバコを吸ったり、神経を緩める薬を飲んだり、砂糖を過剰にとったり。
繊細で敏感な人ならなおのことそうだ。
そして身体を傷つけ、大切なものが削がれていく。
そして、「みんなと同じようになれない」自分の体を呪ってしまう。
20代前半ほどの頃の私は、まさにそんな感じだった。
「いやいや、そりゃそこにいたら本来の力なんて発揮できないよ」って
今の自分なら言ってやれたんだろう。
「繊細だからこそ、草木の世界を深める力もまたあるのだ」と。
「そんなものは平和でつまらない。お前に何がわかる」と噛みつかれながら
「なら気がすむまで「極」を行って、どうか無事に帰ってこい」と答えたんだろう。
震災後、本能から山を登るようになって、伊勢や熊野、屋久島、沖縄に通うようになった。当時の私にとって、東京があらゆる俗世界の「極」なら、伊勢や熊野は神々、屋久島は自然、沖縄は祈りの「極」だった。これらを旅するようになって、「極」を生きるなら、同時にもう一つの「極」を体感して、両端に引っ張られ続ける自分を、「自分の中心」に置くことを学んだ。私はものを伝えることが役割だから、どちらの世界と気持ちも知る必要があった。どちらも否定せず受け入れるためには、両端を知ることが必要だった。
やがて一つ学ぶことを終えた時、「東京という極」は記録として身体に取り込まれ、現在の私の居場所ではなくなった。世界がまた一つ広く、柔らかくなった。
話を戻す。
人は、同じ場所にい続けることで、「そこが世界の中心だ」と思い込む。
どんなにインターネットが発達しても、私たちの体は、画面上に立ち現れた世界を「世界」と納得し切れるほど進化も退化もしていない。
それでいて、今も、太古の昔に愛情を注いでくれた草木や太陽、小川、虫たちの声、滝の神聖さ、山の穏やかさを求め続けて、そこに感じていた神さんを、あらゆるものに投影し続けている。ブッダもキリストもアイドルも、私たちと同じ人であって神さんではないのに、自然から神さんを感じられなくなって迷子になった人々は、今も昔も、「投影しやすい誰か」を、神さんとして祭り上げようとする。そして無償の愛を与えてもらおうとする。
私は人に「神さん」を投影しない。だけどたんぽぽの葉一枚にも愛があって、そこに「神さん」がいる気がする。それ以外からアクセスできる「神さん」を、今のところ私は知らない。
無償の愛を求めてやまないのなら、その心をどうか自然の中で解き放って欲しい。周りをぐるっと緑に囲まれ、花々が咲き、小川の流れが頭のてっぺんから注いでくるように、清らかな場所で、とてつもなく小さな自分が、大きなものの中でたゆたう心地よさを感じて欲しい。
渋谷に住んでた頃、いつも明治神宮内奥の宝物殿前広場で寝転がって、正気を取り戻そうとした。東京にも緑はある。新幹線に乗れば1時間で山は見えてくる。
こういうことを、どうしたらもっとうまく伝えられるのか考えてる。何度でも伝えたい。人が無償の愛を求めるのは全く健康なことで、だけどその愛を人に期待し過ぎてしまうとループに陥る。それは自然から受け取ることができる。自然こそが、そのループからあなたを連れ出すことができるのだと。
そして、自然から愛をもらうことを思い出せたとき、人をもっと深く愛せるのだと。