弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

指先からこぼれて、また飲み込んで

 

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刺繍作家*橘美彩さんのインスタより

たまに文章を綴ってて、自分の指先からこぼれてった言葉たちを眺めている時、ふっと胸のあたりが温かくなる時がある。例えば誰かに大事なことを伝える時ってすごく緊張する。言い方も言葉選びもそうだけど、お互いに限られた時間の中では、どうしてもメールでしかいえない時もある。

 

そこで、意図をなるべく間違えないように、影響を与え合いすぎないように、距離を間違えないように、とあれこれ考えているとしんどくなってくるんだけど、ひとまず「えいっ」と筆を走らせてみると、想像したよりずっとまとまっていたり、書いてみたら案外素直にかけたりすることが良くある。それを送る前にも何度も読み返すんだけど、うん、いいと思う、と思える時、なんだか、自分の本体以上に、その文章を愛せる瞬間があるんだよね。私は、私自身のことを愛して結構時間が経ってるんですが(人並みに受けいれられない時間もそらあったけど)、自分が生み出したものを愛せる時、自分をもっと深く愛せるような感じがある。ない?こういうの。

 

もしかしたら、自分を好きになれなくても、自分が作ったものを愛せたら、だんだん自分を愛せていく。そういうルートも、ここにたどり着くまでにあったのかもしれないな、と最近よく思う。例えば朝起きて味噌汁作って、もうお出汁も味噌の溶具合も十分、土鍋の中で朝靄のように味噌がお湯のあわいを泳いでいて、それをおたまですくうときなんか、とても気持ちいいじゃないですか。ああ。今朝も美味しいものができたな、と思って、たとえ家族が勢いよく家を出てしまって、1人でそれをすする時間だったとしても、幸せよね、その時間が。

 

じゃあ愛せるってなんだろうと考えると、とどのつまり、自分の肉体の外側に置かれた基準から、一旦自立することなんだろうな。一切の視線を無視して、自己満にふけり続ける時間も本当は必要で、そんなはじめっから家族の舌を気にして作ることもなくて。自分が、「ああ、美味しいのできた」って思う瞬間を重ねて、すっくと自分の足で立って、「これが美味しい」と自信をもてた後に、じゃあ家族にとってこの味はどう感じられるものなんだろう、とささやかな摩擦をまた重ねていく。きっとそうやって、洗練されてくものなんだろう。

 

思春期の頃も、自分の顔を好きになれなくて、やっぱり外側にある基準に寄せることを繰り返して、アイプチしてカラコンしてつけまして、先生に追いかけ回されて、「そんなうちからファンデしてたら後で後悔すんぞ!」って怒鳴られてテへ!ってプロセスも一通り楽しんで、どんなに目が痛くてもカラコン外さねえ根性オスみたいなピークもすぎてくると、なんか草木ってそのまま美しいのね、盆栽もいいけどやっぱり春先の生まれたての若葉も、冬至に向かうころ、ふっと息を引き取るように土に帰る紅葉も、美しいじゃないの、と思える頃、私もそれとおんなじだ、って思えて、メイクがだんだん薄くなっていく。生け花だって、やっぱりいかに生を「活かすか」に美があるのだと思うし。不思議とそれを、愛してくれる人もいる。

 

振り子の合間を行き来するように、生きるんだよね。そうやって、美しいな、愛おしいな、と思える自分と手とそこから生まれるものを、養っていくのだろうね。友達の刺繍作品が最近めっきり素敵で、そんなことをふと考えてた。

 

 

 

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