弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

宮崎駿とスマートフォン

スマホガラケーに変えてから2年になる。ガラケーにしたらますます持ち歩かなくなってしまって、道に迷えば「Googleマップって便利だよなあ」と思うし、夫と連絡が取れないときは「やっぱちゃんと持ち歩かないとなあ」と思う。なんだけど、道に迷ったら人に聞けばいいし、急に連絡とる必要があれば、誰かに電話かりればいいかな、みんな持ってるし。そう思うと、夫の電話番号さえ空で言えれば、今の所問題ないかも。

 

ただ災害が起きると、「やっぱSNSは便利だよなあ」としみじみ思う。危険区域に取り残された方がツイッターで助けを呼んだというニュースもあったし。私もPCで散々、Yahoo!のリアリタイム検索にワード突っ込んで、ツイッターから情報収集してたもの。電車いつ再開するのかな、とか、鴨川でオオサンショウウオが打ち上げられたんだへえ〜、とか。

 

ちなみに私がスマホを手放したのは、ある時期からスマホを触ると手が痺れるようになったからだった。例えば右手で持つと左膝がびりっとしたり、後頭部に痺れがきたり。しまいには朝方スマホを手にすると動悸がしたりして、どんどん生理的に受け付けなくなってしまった。夫は普通にスマホユーザーなんだけど、なるべく私のそばに置かないようにしてもらってて、うっかり寝室に置いてあるのを発見したときは、気づいたらぶん投げてた。

 

PCも辛い。MacBookなので、外付けのキーボードをわざわざ置いてタイピングしてるのだけど、それでも手がピリピリしてくる。なので日々原稿書いたりしながら、あと何年もつかな〜と静かにカウントダウンしたり…。

 

でも書いてる原稿はシンギュラリティとかAIとかデジタルワード満載だったりする。ちょうどスマホを手放す前くらいから、IT批評家の尾原さんのライターをさせてもらってるのだけど、なんでか生活様式がアナログによればよるほど、最新の人工知能情報に詳しくなったりしてて、我ながら不思議。

 

そういう混沌とした矛盾と葛藤を、強く呼んでるのは自分なんだろうなと思う。例えば昨年まで、山を登ったり伊勢熊野に通い詰めたりしながら、帰る場所は渋谷区だった。それはもう自分の体内にある強烈な極と極を行ったり来たりするような生活だった。移住先を京都を選ぶに至る過程で、矛盾をやっと統合できた気がしてたんだけど、リアルな空間が整頓されたと思ったら、今度はアナログでありデジタルでもある自分が浮き彫りになってきた。

 

先日の「鈴木敏夫ジブリ汗まみれ」を聞いた友人から、いくつか感想をもらって、そのうちの1人が「米津玄師くんが言ってた、“宮崎駿さんは僕みたいな人間は嫌いなんじゃないか”ってくだり、すごい共感する」と言ってて、それが興味深かった。

 

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となりのトトロで木が生えてくるシーンを見て感動するのと、日々スマホをスクロールする手には、確かに妙なズレというか、矛盾がある気がする。宮崎駿スマートフォン、どちらも自分にとっての快楽だけど、それぞれは対極にあるもの。なんだけど、そのどちらも持ってるのが、自分らの世代なのかなとも思う。もう初めから選択を突きつけられてる、矛盾と葛藤だらけの世代。そういう矛盾を生きてる人なら、きっと深く共感できるんじゃないか。宮崎監督が、戦争は嫌いでも、戦闘機に憧れたように。

 

私だって、スマホを持っても手がビリビリしないのなら、あんな便利なもの、なかなか手放せなかった気がする。ただ、結局手放すに至ったのは、自分の中にある矛盾と決着をつけていくために、つまり選択をしていくために、身体の反応を優先せざるを得なかった、というのがある。もうそれしか、選択していくための指針がなかっただけ。

 

だけど、いざ手放したら、それはそれで新たな展開があったな。多分、スマホを手放したとき、私はある極に寄ったんだと思う。そのことに、私の身体は少し心許無くなった。だから無意識に対極をつかんだんじゃないか。知識としてのデジタルを欲したんじゃないか。つまり、身体には、自分の世界にある極と極の、ちょうど真ん中にいることを、快とするセンサーが内蔵されてるんじゃないか。

 

だから極に寄ることで、結局また極があぶり出される、基本はその繰り返しなんだと思う。どちらも抱えて試行錯誤して、なんとかまとめ上げていくしかないんだよな。明日からナチュラリストとして生き切ります、山にこもります、ってなれたらどんなに心が楽かとも思うけど、いまの自分がそれを選んだとして、なんか逃げてる気がする。

いくら「ニュートラルでいるのが身体の快である」からといって、矛盾を抱えて行き来するのは本当に疲れる。けれど、おかげで一切の思考停止が許されない。そうやってあらゆる自分を統合しながら、時には生活様式や居住環境まで動かして整えて、それをまた言葉にして進んでいくことが、生きることなのかなあ、私の場合。と思う。