弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

森が誘う芳しい死から、私を断つ力

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 瀧原宮

伊勢と熊野との距離が変わった。変わったのは物理的に家から近くなった、のもあるけど、同時に心の距離がぐんと近づいた。昨日も書いたけど、これまでは恋に近かった。「またここを離れて東京に帰るんだ」という気持ちを背負っているからこそ、神殿のヒノキは芳しく、谷間に流れる水を爽やかに感じられた。

別離の予感が、目の前の景色を色濃く立ち上げる。それとも私の細胞が今一瞬を逃さんとピタッと空気に張り付くというのか。それほど長い間、心が、紀伊半島—伊勢、熊野に惹かれていた。

実は移住先を決める上で、京都ともう一つ候補地があった。伊勢の鳥羽だ。

DSC_2205 相差

私はあの海ほど、優しい気持ちになれる場所を知らない。慌ただしい20代を駆け抜ける中で、1人で泣いたのも、1人で笑ったのも、夫と抱き合ったのも、母に心の奥を吐露できたのも、親友と語り合ったのも、全てがこの海だった。

伊勢といえば「お伊勢さん」で、もちろん内宮や外宮、二見興玉神社伊雑宮や滝原宮に至るまで、あらゆる神社に手を合わせてきた。でも、参拝を重ねれば重ねるほど、神殿はある種の窓口なのだという気がしてくる。

その奥にある伊勢志摩の海や二見浦、山々やこの空、それに呼応する自分の体の中にも、何か尊くて清いものが、同じように詰まっているような気になる。その“そんな気になる”をなんども伊勢でコピーして、同じように東京でも生きて行くことができないか、繰り返し繰り返しやってきた。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 内宮の五十鈴川 DSC_1143 二見浦に浮かぶ夫

鳥羽に移住を決めなかったのは、もう一歩田舎に踏み込むには、まだ夫婦ともに何者でもない、というのがあった。例えばカフェを開けば、それが新参者としての名刺、挨拶になる。そういう屋号が、私たちにはまだない。それを携えていくには、やはり京都というシーズンが、これからの私たちにちょうどいい、という選択だった。家族としては。

いざ京都から訪れる鳥羽は、これまで通りオアシスだった。車の窓を開けるだけで、心が緩む。例えばハワイとか沖縄で、暖かい気候にほおが緩むのに近い。ただ少し違いがあるとすれば、鳥羽の「温かさ」は気候に依存していない。もっと磁場のようなものかもしれない。湯だった田んぼの海で、オタマジャクシが呑気に泳いでいるような。

DSC_0008 山の上の宿・いかだ荘より

今回は的矢という海際で一泊し、翌日は熊野を目指した。熊野灘は、伊勢の海とは全く違う。伊勢が女神なら、熊野は男神。荒々しくて深い。特に海岸線を走っていると、屋久島に似ている気がしてくる。奥深い森に、宇宙まで続いていそうな海。果てがない、恐ろしく果てがなくて、気が遠くなりそうだ。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 鬼ヶ城 OLYMPUS DIGITAL CAMERA 全部歩くと往復1時間ある

そういえば以前、NHKのジオ・ジャパンという特集番組で、面白いことを発見した。巨岩が点在し、それぞれを祀る熊野は、その地下に巨大な花崗岩の岩盤が眠っている、というのだ。これをみて膝を打った。屋久島はまさに花崗岩の島だ。つまりどちらも地質が同じなのだ。

すると面白いことが見えてくる。屋久島も熊野も地質が似ていて、どちらも海に囲まれており、ついでに温暖な気候、という共通点もある。そこまで重ねると、今度は両者のズレが際立つ。熊野には、熊野信仰がある。熊野三山という立体的な祈りが天に向かって太古から捧げられている、天地人の連携の取られた場所。

対して屋久島にも信仰がある。滞在中にも参加させてもらったのだが、「岳参り」といって、年に2回、春と秋に豊穣を祈り感謝するため、集落毎の青年団が山に登ってお参りをする。私が参加した永田では、早朝に竹の筒で組み上げた海水と砂を、山頂の祠で蒔いていた。海の恵みは山のおかげ。

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ただ、訪れてみるとわかるのだが、屋久島で感じる「祈り」と、熊野で感じる「祈り」は全く質が違う。屋久島はもっと荒々しい。ジャングルに近い。ともすれば、自然の力が、人の存在を凌駕している。人の祈りよりもっと巨大な、自然の力がある。

熊野はそれに比べると、祈りの力がもっと強くて、自然と人がより調和しているように感じる。どちらがいいかは相性だと思う。私はどちらも好きだけど、屋久島に対する畏怖の念はかなり強い。ともするとちょっと怖い。あそこにいると、どうしてか強烈に死を意識してしまう。

屋久島の力強い森の中、滝の周りなんかにいると、吸い込まれるように甘い引力によって、体が土や水と一体になろうとする。強烈な命を前にすることで、私の命が閃光を放ち、次の闇で死へ向かおうとする。それがあまりに気持ちよすぎて、うっかり生きることの境を超えてしまいそうになる。

一方、祈りによって均衡の取られた熊野は、屋久島並みの自然の力を備えながらも、どこか境界を感じる。色々と感応しやすい私には、熊野がちょうどいい。伊勢に比べれば荒々しく、男らしい雰囲気のある土地だけれど、これが惚れた弱みなのか、どうにもこうにも好きなのだ。

祈りは、自分を、あらゆる生から独立させる力なのかもしれない。書いていて気づいた。そういう物語を書きたい。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 大斎場