弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

読書と執筆と、土地の関係

夫が散歩に行ってくる、と出て行った。一緒に行こうか迷ったけど、ニュースでも漁ろうと椅子に腰掛ける。Foresightを開いて、土俵の女人禁制のそもそもの歴史と、長崎の隠れキリシタン文化遺産登録について、どんな勧告を受けたかについての記事を読んだ。

ニュースサイトでわかるのは、いま自分がどんなことに興味があるのかだよなあと思う。テレビと違って自分から情報を取りに行ってるぶん、関心があるものしか読まない。なので時折、夫とその日に読んだニュースで面白かったものを共有しよう、という話になった。他者の興味を取り入れればインプットの幅が広がる。今日は修験道の成り立ちから紐解く女人禁制の記事が面白かったので、関連図書のタイトルをコピペして、京都市の図書館サイトで予約した。

夫が帰ってくる。手にはコーヒー。ほおが赤い。「今日図書館行くけど」というと、あ、これ返しとして、これを借りてきて、とカードを渡される。図書館に行くことが、スーパーに行くことと同じくらい習慣化してきた。私はもともとあまり本を読む方ではなかった。ライターとしては恥ずかしいくらい。

それがこっちにきて、集中して本を読めるようになってきた。こう書くと言い訳みたいだけど、渋谷区にいた頃は何をしても気が散った。いつも散漫だった。それが引っ越してきて変わった。人口比率や山など自然の面積と、人の気分や集中度は比例するように思える。

手元にあった宇多田ヒカルの歌詞をまとめた詩集本を開いたら、詩人の最果タヒの寄稿が載っていた。面白かったので、検索をかけて、最果タヒ本人が過去に受けたインタビューを読んでみると、”渋谷だと詩を書くのが捗る、賑やかな場所の方が筆が進む”という趣旨のことが書かれていた。ああ、それはそれでわかる気がするなあ、と思った。

読書は静かな方が落ち着くけど、執筆、というかアウトプットはそうとも限らない。私には相性が悪かったけど、渋谷で何か文章を書くときは、いつも身体が独特な熱のようなものを纏った。当然それは過度な人口密度による人の気が凝縮されたようなもので、そこにアクセスしていると、何か切実な培養体にふれ、そこから切なさと快楽が混じったような小川が、手の中から溢れる感じがある。

その小川が流れる場所を私は知ってる。渋谷は「谷」だ。その谷底、宮下公園交差点近くのディーゼルあたりに、女の子のあらゆる切実さが集まっているような気がいつもする。その真下には、本当に川が流れてる。渋谷川の暗渠。

こうして書いているだけで、一瞬本当に渋谷に飛んでいたような気がする。頭の中でDAOKOのShibuyakが流れ出す。(昨日久しく夫とカラオケをした)

つくづく文章ってアクセスする行為だと思う。読むことも書くことも。ああ、そういえば東京にいた頃は読めないノンフィクションがいくつかあって(資料として読みたいんだけど気持ちが沈んだりして読むのが辛くなったり)、ここにきてやっと冷静に読めるようになった。山も森も近く、言葉の影響をすぐに消せるから。情報は人を書き換える。なぜだろう、いいことも悪いことも、体内に入った言葉の情報は山とか川とか、自然に触れていると全て消え去る。 OLYMPUS DIGITAL CAMERA 「身体に書き込んだ情報・言葉が自然の景色によって消える」というよりは、「自然の景色を身体に書き込む」ことによって、言葉が消えていく感じ[/caption] 渋谷区にも自然はある。Googleマップでみると、むしろ都心で一番ってくらい、緑の面積が広い。だけど、人に書き込まれた情報を拭い去るほどの自然は、その面積が人の住む領域を圧倒するほどのものであって欲しかった。渋谷区は人が住んでいる面積の方が大きく、あれほど広大な明治神宮や代々木の杜さえ、住宅やビルが囲む。その景色と私の体は比例していた。

京都は都市だけど、山に囲まれている。特に私が住んでいる地域は山も川も森も近い。ここ1ヶ月、渋谷区からこっちにきて、山と街の比率が逆転したことで、身体が緩やかに設定を変えた(その過程でここ数年で一番肉を食べた)。その変化の一つが、集中力が上がったことのように思う。私には、今の比率が相性良いらしい。体感では渋谷区(街8:自然2)、左京区は山に囲まれていることを考慮して(街3:自然7)くらい。あくまで体感ね。 OLYMPUS DIGITAL CAMERA

DSC_0208 ちなみに屋久島は(街1:自然9)くらいだった。私の初期設定(出身地)はこれくらいなんだけど、今の私ではちょっとトゥーマッチなのかな。 DSC_1520 比率で測る街との相性って、面白いよね。