弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

母「京都でスシロー食べたい」

実家から母がやってくる。スキー場で働く母は春先になると中期休みをもらえるので、国内を津々浦々旅するのが楽しみらしい。なにやら各地に友達を作っては遊びに行ったりしているらしく、私が東京に住んでいたころはよく我が家を拠点にして、「夜には帰るから!」とどこかへ消えていくのだった。

そんな母にとって、娘の京都移住は「ヤッピー西に拠点ができた☆」って感じらしい。ただでさえしょっちゅう京都を訪れていたので、タダで泊まれる場所があるのは願ったりなのだろう。

私も「次の休みに遊びに来てよ」と誘い、親子で京都をのんびり観光するのもいいよね、というような話になった。(それでも「あ・・・でも1日くらいお友達と遊ぶかも!」と、暗に「ずっと娘と、ってのもねえ〜」を丸出しにしてくる感じがたくましい)

日程が決まると、そこからすでに母の旅は始まる。一週間前には必ずといっていいほど、母が鏡台の前で、夜な夜な1人繰り広げるファッションショーが始まり、全身自撮りのオサレ画像がLINEに連投され、「どっちのスカーフがいい?」「パンツおかしくない?」と質問が飛んでくる。

乙女モード全開の母に、適当な返事は許されない。「お母さんは顔が派手だから首元は青で抑えたら」とか「その靴に合わせるならパンツの裾は折り返したほうが可愛い、足首綺麗なんだし」とか、なるべく褒め言葉を添えた理論的な返事を心がける。

そりゃ学生時代なら「めんどくさいな」で終わりだったけど、50半ばを過ぎて、特段若作りをしているわけでもないのに、いつも”みずみずしい”母の若さは、きっとこういうおしゃれ心を大切にしたり、旅の日程を決めそこからアドレナリンを全放出させる人生の楽しみ方からくるのだろうと思うと、それを応援してあげたくなるのだった。

さてすでに母の体内では京都へのカウントダウンがズンドコ鳴り響いているらしく、「借りてたDVD今度でもいい? お土産のお煎餅が入らなくて」とか「吉野の桜が咲き出したって〜!(←一緒にいくやつ)」とか、毎日のようにLINEが飛んでくる。

ほんで昨日はこんなのが届いた。 スクリーンショット 2018-04-04 8.16.41 いや、いくら地元に寿司屋がないからって(隣町にはあるのだが母は車を持ってない)、わざわざ京都まで来てスシローて。てか京都は別に魚介が名産ってわけでもないのに・・・

おまけにこの日は一緒にご飯を食べようか、なんて話していたのだけど、母的には「スシロー行きたい」→「多分弥恵ちゃんたちは行きたがらないだろうから1人で食べよう」、と考えていたのらしい。いや別にいいんだけど、そもそも金沢で途中下車して食べればいいじゃん、駅近にもいっぱい寿司屋あるし。

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まあそんなわけで食べログやら食ブログを駆使して、混雑していて入れなかった時のために駅近の寿司屋を3店舗みつくろいURLを送る。こんなの今日日「OK,Google 金沢駅 寿司屋」で調べてくれよとか思うけど、つくづく検索ワードとは”思いつき”がなければ結果にたどり着くこともないのだよなと思った。

ちなみに母は、新幹線で東京を経由するのではなく、節約と観光を兼ねて、ほくほく線日本海沿いを金沢へ、そこからサンダーバードで南下する。これだと、越後湯沢〜京都の新幹線で片道4時間で2万円かかるところを、その半額程度で済む。

代わりに5時間半かかるけど、右手にはひたすら日本海が続き、左手に立山連峰も見える。日ごろ山の中で暮らす母は開放感のある空を求めている。海の旅路を選ぶのは本能的なものなのだろう。

まあそんなわけで、母が旅に求めているのは”そこにないもの”であり、それは”海”であって”魚介”なのだった。それが京都へきてスシローという、傍目にはトンチンカンな欲求になる。だけど「京都=都会だからスシローがある」という具合に、母の脳内検索機能は導き出したのだろう。

そういえば以前も、地元に帰った時に祖母をドライブに連れ出して、つい自分が食べたかった蕎麦屋に入ったところ、静かにがっかりされたことがある。いや、祖母としては楽しそうにしてるんだけど、入ってから「あ、そっか、おばあちゃんには普段食べない洋食の方がよかったのだな」と気づいた。

都会暮らしの私には「このひなびた感じがいいよね」とか思える山奥の温泉街なんて、山の中で育った祖母には「いやだこんな貧乏くさいの」って感じらしい。

一方で東京に暮らすMr.ベルツリーは、よく武蔵小山の庶民的なラーメン屋さんに連れて行ってくれて「この味のある内装が落ち着く」と言ってたっけ。

岩手の湯治場・大沢温泉を気に入ったのも、歴史があって味わい深く、余計なものや派手さがないシンプルさが心地よかったのだろうなあと思った。立場上行く先々でVIP待遇されるであろう氏が、そういうのにお腹いっぱいになって、素っ気なさを求めるのだとしたらそれはちょっとわかる気がした。(単にそれが趣味なんだろうけれども)

つくづく思うけど、人をもてなすのなら”その人が普段置かれている環境の対局を用意せよ”だなと思う。山の民には海を、都会の民には田舎を、自然を、だ。つまり暮らしの中にある風景は、身体の一部でもある。そして旅先で自分にはない「海」とか「田舎」の景色をばくばく食べて、ちょっと強化された自分が、また日常を奮闘していくのだろうな。それが旅の欲求なのかもしれない。