弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

渋谷、脳内検索

目がさめると、キッチンから水がじゃ〜〜っと流れる音がした。あれ、洗ってないお皿なんてあったっけ。音の動きをたどると、どうやら夫がお米を研いでいる。夫? ああ、そっか、家にいるんだ。さっきまで切り立った海岸の草むらに身を潜めて、追っ手が近づいてくるのを、「いよいよ死ぬかもな」と構えていた緊張感がどっと緩んでいく。

追いかけられる夢を見る。一昨日もそうだった。寝室に入ってきた夫にそう話すと、ふんふん言いながらロールカーテンを引き上げ、「今日は天気がよくなりそうだね」とまた出ていった。むくっと起きてみると、生クリームがべとーっと引き伸ばされたような一面の曇り。スカイツリーのあたりだけ、塗り忘れたみたいに青空がのぞいてる。

焦る気持ちだけがまだ続いていて、脳内検索がはじまる。なんか締め切りあったっけ。メールは返してるはず。今日は急ぎの予定もない。うん、焦ることは何もない。そう思うとまた眠くなる。エイっと起きて、パタゴニアのフリースとモンベルのダウンパンツを着込む。夫はまだパジャマのままでPC作業。ご飯が炊き上がる前に味噌汁を作る。

朝は必ず海藻を入れる。伊勢志摩に行ったときに、鳥羽の相差でいつも買い込む、あらめ、あおさ、わかめのどれか。玉ねぎを切って、山ウドも輪切りにして入れた。「いつもより甘いねえ」と夫。玉ねぎを入れると甘いよね。次は新玉にしようか。

午後、一仕事終えて渋谷へ降りる。「降りる」というのは、単に地形からくる感覚で、私が住む参宮橋あたりから渋谷の街の方へ出ると、ほとんど坂を下るから。山手通りぞいを自転車でシャーっと滑って、富ヶ谷交差点を左折して、松濤のあたり、通称奥渋谷をのろりのろり進む。一通だからか、ほとんど歩行者天国みたいに、歩く人のゆるさったらない。

ドンキの前あたりまできて、銀行に入ると、あれ、ここATMだけで窓口ないの? そばで突っ立ってるスーツのお兄さんに聞くと、「あ、すみません、僕ここの人間じゃないんです。ははは」。ははは。笑うしかない。

だけどもう15時になっちゃう、窓口のある店舗はどこだ? ああこんなときはGoogleマップ、ってガラケーだったわ、とか反射的に考えてる私を中学時代の私が見たら、「なんでもググる大人イかれてんじゃね」とか思うんだろうなあ。

銀行といえば駅前、っつっても渋谷駅前で浮かぶのってツタヤとなんとか書店とどっかのビルの上のロクシタンの文字、赤いケーキ屋、マクドナルド・・・・・・あ、マックのあたり、銀行ありそう、と思って車道に出てしこたまチャリを漕ぐ。いやほんとこれを読んでる人に見せてあげたかったよ、スクランブル交差点の人ごみを、網目をくぐるように、スイスイこなした私のしなやかなチャリさばき。

あった、緑の看板、ってもうシャッター閉まるジャーン!! と降りてくるのを、化粧あつめのおばさまスタッフに「どうぞ!」と手招きされて、くぐり抜ける。「ご用件は?」「あ、えっと、キャッシュカードの暗証番号忘れちゃって」「ではこちらの書類にご住所と・・・」

もう閉店すれすれの銀行、なんだろうこの倦怠感、そんで教えてもらった私の暗証番号、どうしてこれを忘れたんだろうってな数字の羅列で、受付のオレンジルージュなお姉さんにも変更を勧められた。

さて帰宅、と思って、あ、読みたい対談があったわ、と東急百貨店7階の丸善ジュンク堂へ。高級百貨店の1階、エレベーター前でちょっとそわそわしてる人は大抵7階目当て。2つあるうち、右側のエレベーターがちょうど行ってしまって、乗ろうとして後ずさりした高校生くらいのカップルが、「あるよね、あるある(笑)」と、恥ずかしさを打ち消すように笑いあってた。

その手前から、(ちょいごめんなさいね)って感じでえいっとボタンを押すと、また二人は「あるある」と笑う。「先に上がったエレベーターが2階くらいに行ってからちょっと待たないと、すぐ開いちゃうんだよね」「そうそう」。すまんな、お姉さんはこのエレベーターとの付き合いが長いもんでね、「ちょっと待つ」のタイミングがもう呼吸でわかんのよ。

急いでいるわけでもないのに、エレベーターを待ってる時間が好きじゃない。7階でじっと点灯していたランプが、一気に6から1まで引っかかることなく降りてくる。開いたとたんに反射的に乗り込むと、後ろの高校生カップルも乗り込んできた。そしてエレベーターは上階ではなく、地下階へと降りてった。

あ、またやっちまった。これしょっちゅうやるんだ、1階で待ってて扉があいても、エレベーターが地下に潜って、もう一度浮上したところで乗り込むのがセオリーなんだけど、なんでかいつも「ウ〜開いた!!」って飛び乗ってしまう。同じミスを犯した高校生カップルが「あるある!(笑)」ともう笑いが止まらない。

「これ一階で待ってるやつだった」「やっちゃった、もう一度一階で止まって扉があいて『こいつら地下まで行っちゃってクスクス』だよね、めっちゃ恥ずかしいんだけど!」 もう君たちは私の心の声が聞こえてんの? とか思いながらエレベーターが上がっていく、と、誰も乗り込む人がいなかったのか、するっと1階を通り過ぎた。

たまらず後ろを振り向いて「開かなかったね!」と私が笑うと、高校生も「開かなかったですね!セーフ!ウケる!!」とかはしゃいで、あっというまに7階についた。つかの間、あの絶妙な空気を共有した者同士、ニコニコペコっとお辞儀しあって別れた。

さて丸善ジュンク堂について、10秒ほど「何しにきたんだっけ?」と立ち止まり、おまけに雑誌名が思い出せなくなり、店員に「あの、なんでしたっけ、バットじゃなくて」と声をかけると「CUTですか?」と瞬時に返される。ああそれです、ははは。あ、大丈夫です名前が思い出せれば。

そういって歩きながら、今気づいたみたいに改めて、本屋の匂いを胸いっぱい吸い込んだ。本棚の先っちょについてるベンチ、なんども座ったな。撮っておくか、いやいいや。なんだかもう、変な時間だ。東京を出るまであと13日。引っ越しなんてなんどもやってるけど、街を離れるまでのこの時間はなんどやっても慣れない。どんどん過去になっていく感じがだるい。センチメンタル風な自分がだるい。

そういえば、パルコがすっかり無くなってて、そこだけただの空だった。