弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

ピカチュウ化する夫とチンピラ妻(満月更新)

そもそも、どうして一人になろうと思ったのかを考えてた。

数日前に夫が湯治場にやってきて、部屋に入ってきたとき、この人の身体から発せられてるビリビリした空気はなんだろう?と思った。実は電磁波に敏感な私はスマホのビリビリが辛くて触れられず、以来ガラケーユーザーなのだけど、それでいうとまるで巨大なスマホが入ってきたみたいだった。

人間の身体も電磁波を発しているというけれど、イライラしたり余裕がなくなると、ピカチュウみたいに放電するのだなあ、と感心した。というのも、2週間も自然と温泉の行き来みたいな生活をしていた私はすっかり素に戻っていて、人の発してる電気みたいなものの手触りをいつも以上に感じられるようになっていたのだった。

そりゃ疲れるよなあ。東京で仕事を頑張って、おまけに節約のために高速バスできたのだから、そりゃ私だって放電する。普段は高級シルクのような細かで柔らかな空気をまとった人なのだもの。あらかじめ敷いておいた布団に寝てもらうと、こぐまみたいにスヤスヤ寝だした。そのあと、「うわん恋しかった」とかなんとかチュッチュして仲良く手を繋いで往復1時間かけてコンビニまで行った、まではよかった。

部屋に帰るとどうにも噛み合わず、夫がいることがうれしくて構ってキャオンギャオンわめく私と、1秒でも無音で過ごしたいシジミ貝のような夫との二人、喜劇のような悲劇が繰り広げられていったんである。爆発したのは翌日の昼。まあ控えめに言って喧嘩になった。しかも人間のビリビリって、なんか感電したみたいになって、私まで一緒にピカチュウ化しちゃう時がある。もうほとんど二次災害ッ。

そもそも私は夫と入れ違いで帰るはずだったのを、予定を伸ばしての滞在だったし、もともと夫はMr.ベルツリーとのしっぽり旅行ってのもあって、「あれ、でなんで弥恵ちゃんずっとおんの、ワンワンうるさいの、おもてたんと違う」ってな不満があるらしかった。私はちゃんと次第を連絡済みだったけど、その辺の認識が曖昧になってたらしく、「言った」「聞いてない」の応酬が始まり、火がつき出した。

つまり夫は一人になれるのを想像していたようで、その時点で提案された「部屋を分ける」っていう選択肢を私もすぐに飲み込めばよかったんだけど、喧嘩状態でそれを言われると意固地になってしまって、どうにも判断がつかなかった。

私は私で、それまでの静かで平和で、いつも以上にひらめきやすくて、窓の外の木々すら目があっちゃうしウインク返しとく☆、みたいな赤毛のアン気分だったのを邪魔された気持ちがむくむく膨れ上がり、一気に下町のチンピラモードになってしまった。

夫婦喧嘩を犬さえも食おうとしないのは、大抵どちらも自分のことしか考えてないからなんだけど、時には「自分のことだけを考えるべき時」ってのが夫婦にはあるのらしい。

グッシャグシャに泣きながらビーンズ先輩(ベルツリー族の一児の母)に電話した。ちょうどタクシーを降りるところだったらしい。「ズビマゼン」と止まらない私に「いいよいいよ」と話を聞いてくれる。もうそれだけで心がほぐれる。「湯治場まできてそれはもったいないよ、すぐ部屋を分けて、お互い休むことに集中したほうが、お互いにいいよ! 夫婦なら一緒にいるのが正解みたいな気分すごくわかるし、弥恵ちゃんの解決するまでは向き合うことを諦めたくない感じもめっちゃわかるんだけど、そういうときは離れたほうが、あとでちゃんと分かり合えるよ」と言われてようやく視界が広がり、部屋を分けたのだった。

和室8畳。夫の荷物が一つもなくなった途端、部屋がいつもの落ち着きを取り戻した。ノイズがない。というか、私にとって柔らかい音しかない。私そのものだけが発信され、壁や天井に当たって、ただ戻ってくるだけの空間。あまりに気が抜けて、思わず「ふえら」と笑いが溢れた。ビーンズ先輩すげえ。

そうやってまた一人の時間と空間を取り戻すと、ふと見えてきたことがあった。私は一人になりたくて、花巻にきたんだった。そして夫も同じことを望んでいるのだった。私たちは夫婦として組み合いながらも当たり前に一人一人の独立した人間であって、決して二人で一つ、ではないのだ。少なくとも、より自立した個人として組み合うことを望んでいるはずだ。

春からの新生活は、私にとっても、夫にとっても、大きな変化になる。私たちはそれぞれ、次のステージに行くために、色々な整理をしてきた。その最後の作業が、身体をしっかり癒すことで、一人の人間としての自分に立ち返り、これまでの生活でつい見落としてしまった”自分のかたち”を、ちゃんと取り戻す時間が必要だったのではないか。

私たちは夫婦になることで、自分の形を変えていく。良い悪いじゃなくて、人はみんなそうだ。例えば母を前にした私はいつまでたってもナイト気取りだし、すでに去ったはずの父に立ち向かおうとする私はいつも多くを背負いすぎている。会社や友人関係ならなさらそう。でもどんな人にも、本来の形みたいなものがあって、そこから発せられる輝きみたいなものを、しっかり取り出していく作業を、常にやり続ける必要があるのではないか。

それは1泊の一人旅行でも叶うかもしれないし、大きな区切りの前になら、まとまった時間があると良いのだろう。普段の散歩もそういう時間だよね。そうやってバランスをとりながら、愛する人と組み合っていくのが家族なら、一人になる時間こそ、愛し合うために必要なんだろう。

そう思い至って、あれほど東京と伊勢や熊野、離島やらを行き来してきたこれまでの都会暮らしは、ただ都会と自然のバランスを取るためだけのものだったのではなく、自分らしさを常に取り戻し続けるための衝動だったんだと気づいた。

私は人一倍、自分らしくあることへの情熱と危機感が強いのらしい。確かに、自分らしくあるためならなにを捨てても惜しくはないな、という妙に気の強い女が、胃腸の奥深くに居座ってるのを感じる。ならば私も、一人になろうとする夫を、自分なりの目的のもと湯治をしにきた夫を、もっと歓迎した方がいいんだろうなと思ったんである。

今後の我が家の方針としては、「どちらかがピカチュウ化したら感電する前に空間を分けるようにする」、でいこう。「ビリビリ」は目に見えないサインだ。単なるアラートと思えばいいんだ。そんなわけで、引き続き一人旅気分で温泉に浸かる私なのでした。やっぱ夫婦喧嘩のあとは、そこらのおばあちゃんと交わすなんでもない会話、源泉掛け流しがきくやね〜。

PS、満月は目に見えない不思議なお話をロマンチックに♪と思ってたんだけど、、、これも満月の引力で生まれたような話だよね。