弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

愛と希望より前に響く(大沢温泉7日目)

6時に目が覚めて、身体を温めに「かわべの湯」へ。午前中は原稿を書いて、また温泉に浸かり、まだまだ晴れるらしいので散歩をすることにした。昨日からちょっとずつ歩き始めている。大沢温泉敷地内にある神社にもお参りした。今日はなんだか川べりに出たい気分で、別館「菊水館」へ向かう途中の、駐車場寄りにある人気のない橋へ。

川も好きだけど、橋の上の、とりわけ流れの中心の上に立つのが大好き。高さは4メートルもないくらいか。飛び込んだら気持ちいいけどあの深さじゃ底に腰を打つだろうな。足元の雪を蹴る。一昨日積もったボタ雪が、音も立てず流れの中に消えていく。目をつむって、流れの音を身体の内側に響かせる。身体の中身が、全部清流でできていればいいのにと思う。そして絶えず流れていて欲しい。つくづくそう思う。

子どものころからたまに感じる懐かしい風があって、それが濃厚になるのはいつも川のそばにいるときだ。勝手につけたその名前を呼ぶと、白い岸辺から伸び上がる笹の群生が明るく揺れた。私も笑いかけてみる。一瞬の無音のあと、耳元を風が通り過ぎていった。

足元を流れる川の上に、さっきまでの風がすうっと横たわった気がして、こうして渓谷沿いに休養にきたのは、私だけじゃないのかもしれないと思った。今私は全く一人なのに、一人じゃない。途端に心が、音が、こみ上げた。

川の流れが響く谷あいに、私の声は跳ね返ることなく、雪に吸い込まれていく。その下の土に眠る根まで届くように、染み込むように、春の歌を歌った。愛と希望より前に響く歌を。川の光が跳ねる。なんでかいつも、うれしいと、同時に切なくなって、この歌が口から溢れていく。あなたが聴いているような、一緒に歌っているような気がしました。

日がどんどん広がって、雪が眩しい。いつか屋久島で聴いた歌が浮かんで、橋の手すりを太鼓がわりに叩くと、ボオンボオンとこもった音が響いた。風が私に巻きついてまた離れていく。一人じゃないどころか、ここには本当にたくさんいるな、そしてこの「たくさん」に向かって、海でも山でも森でも神社でも、家のなかでも、ずっとこうして歌ってきたことを、思い出した。

えんえんと歌い続けていたら、一瞬吐き気がして、おえっと5回くらいえづいた。身体が一段と軽くなる。「ウタ・ハライ」という言葉がお腹のあたりで音を立てる。歌祓い。歌えば歌うほど、閉じていた腹と喉がどんどん開いていって、大きな空洞ができたみたいになる。もっともっと、大きな木みたいになって、根も葉も伸ばすように歌えたら。

声は景色のなかに身体を溶かしていく。なんでもいい。気持ちよく歌えれば。なんでか曲は勝手に出てくる。ただ大抵、盛り上がるところが「あ」の音ではじまったり、伸びたりする。歌いたいとき、気持ちよく「あ」を出したくなる。「あー」って歌いながら舞いたくなる。気がつくと名前のない歌を歌ってる。そうだったそうだった、なんで忘れてたんだろう、いつだってそうやって、この景色のなかに入っていきたいと思うとき、こうして歌ってたんだった。

小一時間くらいそうしていただろうか。部屋に帰って、このことをいつかの日記で書いたはずだ、と、家から持ってきたモレスキンのノートを引っ張り出した。いつ書いたんだっけな。旅先に滞在したとき、数日経って、いつも突然に満たされる瞬間が訪れることを。その糸口をさがしてたここ数日、ずっと追いかけていた言葉を、どこかに置いてきたはずだ。

あった。2015年の夏、沖縄の久高島に滞在した時の日記に、走り書きがあった。

はじめは日常をひっぱる やがて心が景色にならい 結ばれ  反転する そして景色は心になり 微生物が放つ光すら 強烈に感じたりする

自分の旅の心得として、浮かんだまま書いた覚えがある。歌うこと、舞うことは、登山でハイになったときや、散歩でマリオスターモードになった時に似てる。景色と自分を結ぶ歌は、うれしくて、全身が華やいだときにこぼれ落ちていく。そうだった、うれしいから、身体は、景色に溶けていくことができるんだった。