弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

おばあちゃんのボケ神秘

その日は大雪で、帰省中に高熱を出した私は母の家で寝てた。午後3時ごろピンポンが連打されて、母が帰ってくるには早すぎるなと思って出たらおばあちゃんだった。私の顔を見たおばあちゃんは「いたが」とびっくりして、そのびっくり顔が、嬉しかった。80をとうに超えても毎日温泉に通うおばあちゃんが、ぼけはじめてから時折、自宅に帰る途中に母の家を訪ねてくることがあるのは聞いていた。

けどどう考えても母が仕事でいない時間帯の、それも在来線が運休になるほどの大寒波の日にこうして訪ねてくることは、私にはたくましいなあなんて無責任に思えることだったけど、母には違ったらしい。母は「坂で足を滑らせたらどうするが」と、雪の中を帰って行った祖母を思い浮かべ、イライラした爪でサロンパスをめくっていた。母は昨日、家の前の坂で珍しく滑って転び、左肩を強く打っていた。

去年の春にも、同じようなことがあった。私は登山と山菜採りのために母の部屋に泊りにきていた。そろそろ山にいくか、と思った瞬間におばあちゃんが尋ねてきた。「ちょうどいいや、ぜんまいとジイジイの違いわからんっけ、教えてよ」と手を引いて、そのまま二人で山に入っていったんだった。

布団から起き上がり、「こんなことしょっちゅうあるの?」と台所にたつ母に聞くと、「いやそんなことはないけど、弥恵ちゃんがいた時でよかった」と、細かくきざんだ生姜を鍋にちらしたのが見えた。あ、生姜は最後に入れた方が苦味が出ないんだよ、と言いかけて、仕事から帰ってきた人に食事を作ってもらっておいてそれもな、と思い直し、「おばあちゃん、私のこと好きだよね」と肩までこたつに潜った。

ぼけ始めてから、おばあちゃんは日に日に顔つきが幼くなっていくように感じる。私を見て「いたが」とぱあっと笑った顔が、かわいかったなあと、きっと子どものころはあんな顔だったんだなと、遠い面影を見た気分だった。

年に数回しか会わない私には無責任に嬉しく思えることでも、周囲の家族にとっては別次元の問題で、それを百も承知できるほど、ボケの深刻さを私はわかっていない。でも、だから、私にはおばあちゃんを日常から連れ出す役割がある気がして、夏がくるたび、車を借りて2人でドライブをした。そのたびおばあちゃんは壊れたカセットテープみたく同じ話を繰り返した。

景色は街の景色から田んぼへ、雪が残る巻機山から雲のない八海山へと、確かに移り変わっていくのに、おばあちゃんはおじいちゃんと駆け落ちをしたときの話を、たったいま思い出したように3度も話して、もう誰もがそのことを知っているのに「弥恵は孫だから話すけど、娘たちには内緒だから」ときつく言い、昨日のことのように、私の知らないおじいちゃんが、どれほど肌が浅黒くいい男だったかを話した。ガタイがよくて、おっかなくて、笑うとすごく優しかった。そしてある日突然姿を消してしまったことを、どうも女ができたらしいことを「あたしを置いていけると思わなかったの」と、深いため息をつきながら思い返すのだった。

きっちり同じ話を1日に何度もされると、だんだん、おばあちゃんの存在感が色濃くなってきて、それに翻弄されている私が薄くなっていく。運転中、実は私がタイムリープしてるのかもしれない、なんて気になって、話の分岐点で毎回質問を変えて、おばあちゃんの話の結末を、未来を変えられないかを試みた。

だけど、“たったいま同じ話をしたことを忘れる”のに、“駆け落ちするときに車に押し込んだ毛布の色”まで鮮明に覚えているおばあちゃんが行き着くのは、より色濃くなる描写に基づいたおじいちゃんとの別れだった。そして、結末はいつも「あたしはいい人生だよねえ」という言葉だった。それは、話のたびに生き生きし出したり、しょぼんとしたりを繰り返すおばあちゃんの感情の波を、どうしても私がすくい上げてしまう瞬間があって、それは心から、“いま孫とドライブしてるおばあちゃんはまあまあ幸せじゃないか”という思いを伝えずにいられなくなるからで、私の「私はおばあちゃんにとっての幸せである」という自負が、そういう言葉を引き出すのだった。

鍋を食べたあと、お母さんはおばあちゃんに電話した。「私が家にいるときは、こっちから電話するから。今日はたまたま弥恵ちゃんがいたからよかったけど、もういきなり来ないでよ、危ないんだから」と念入りに繰り返した。すると突然お母さんが「やだ!気持ち悪い!」と小さく叫んだ。びっくりして電話が終わるのを待つと、お母さんは怪訝な顔で「おばあちゃんね、家に帰ってからずっと“左肩が痛む”んだって。だけど打った覚えがないんだって、私に聞いてくるの」と言う。お母さんは不思議そうに、昨日痛めた自分の左肩をさすっていた。

PS お蕎麦屋さんでの待ち時間中、お手玉で覚醒するおばあちゃん DSC_1359