弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

雪が溶けるほど踊りたい

ブログを始めて、記事を投稿するとき、以前SNSとかをやってた時の感覚がもはや思い出せないくらい緊張した。「なんでブログでこんなに手汗かいてんだ」と戸惑いながら、一方で身体の奥の奥から突き上げる「自分をちゃんと表現したい!伝えてみたい!」っていう欲求にズンズンドコドコ動かされた。これがどこからくるものなのかはよくわからない。

とにかくカッコつけたり、遠慮して捻じ曲げたり、曇らせずに純粋に書きたい、という気持ちが溢れて、だけどそれを人に見てもらうことも怖くて、せっかく治りかけた風邪をまたもやちょっとぶり返した(いまは治った)。

面白いことに、「なぜかいま」そういう気分を感じているのは私だけじゃないらしい。女友達とは不思議で、例えば私が生理中のとき、生理が遅れている友達と遊んだりすると、その子に生理が“うつる”ことがよくある。

「女同士は共感でこそ関係が成り立つ」というけれど、そんなもんじゃない、もっと言葉にならない領域で、身体とからだで感応し合ってる。それと似たような仕組みなのか、あるテーマで悩んでいたり、それに直面していたりすると、まるで引き合うように友達も、似たようなことで悩んでいたりする。

ある友達は飲み会やイベントが好きでよく顔を出すのだけど、ちょっと悩んでることがあった。人が多い場所だと、調和することを意識しすぎて自分を出せない。そのせいか、酔って不機嫌をあらわにする人をみるとイラついたり、空気を乱す人をみると途端に不安になって、なぜかフォローしたりするという。そんな自分に、ちょっと疲れてしまうと。

一方で、ここ数年で盆踊りにのめり込み、“みんなで調和しながら、自分を表現する輪”の心地よさ、解放感に惹かれていった。自分を表現することは、悪いことじゃないんだと思った。誰もが自分を解放しながら、汗を流しながら、ぐるぐる踊る景色に、人の輪のあるべき姿を感じた。

だから、たとえそれが怒りでも、空気を乱すものであっても、感情を表すことは、決して悪いことじゃないはずだ。だけど、そのためにせっかくの楽しい雰囲気が台無しになるのもなんか嫌だ。私は本当は、何にイラついているんだろう。メールを読んでいると、そんな苛立ちと戸惑いが伝わってきた。

ふと、雪深い故郷を思い出した。私も彼女も同郷で、雪国の、水の綺麗な米どころで育った。おそらく私にも彼女にも、何世代かぶんの“農作業”のDNAが入っている。雪国の人はとても我慢強い。それでいて、輪を大事にする。そのために、“みんなでちょっとずつ我慢する”のを美德としているところがある。

だからこそ、地域の祭り、ハレの日は、大いに盛り上がったと思う。ちょっとずつ我慢した蓋をバーっと開いて、空を仰いで、雨でも晴れでも歌って踊る。長い冬を越えて春を迎えるたび、山々の命の絶叫に打ち震えるのは、私だけじゃなくて、私の中にいる先人の血が感応してるせいもあるんだと思う。

二人でよく、いつか畑をやりたいよねと話した。土をいじると心が落ち着くから。そして雨が降った日は、絵を描きたい、私は踊りたい、私は文章かな、縫い物も楽しい、手作業っていいよね。そんなことを話した。

私も彼女も、自分を表現したいと思った。何かを強く主張したいとか、間違いを正したいとかじゃない。ただ、雪解けの谷間に顔を出すふきのとうを見つけて、心踊るあの感じを、感じた自分そのものを表現したいと思った。お日さまにありがとうと伝えるために。

だからきっと、大切に見なきゃいけないのは「調和と表現の間で感じるジレンマ」じゃなくて、その根っこにある衝動だと思った。

もう私たちは、人目を気にしてしまう自分と戦うことすら、やめてもいいんじゃないか。「また本音を言えなかった」と自分を責めるのをやめていいんじゃないか。会話でしか、言葉でしか自分を伝えられない思い込みから、解き放たれていいんじゃないか。

暦の上では立春をすぎて、もう春がやってくる。雪はまだまだ解けないけど、ふきのとうは雪の下でも力強く生えて、太陽を待ってる。私たちは、そういう命の力を知ってる。本当は咲かせ方も知ってる。本当はずっと大丈夫で、ずっと問題がない。何かを足す必要はない。解き放つだけでいい。私も見せるから、あなたも見せて。

先人が羨むほど、雪が溶けるほど、踊りましょ。

PS 今年もどっさり降ってます DSC_1967